1939年、京王電気鉄道から1輌を譲受、115とした。元は八王子・高尾周辺を走っていた武蔵中央電気鉄道が開業時に新造した6であるが、1938年に同社は一部区間の営業を廃止、京王に合併され翌年には全線が廃止されており、車輌はいずれも他社に移籍した。そのうちの1輌である。

戦前の移籍ボギー車では唯一の半鋼製車で、シングルルーフに一枚引戸、一段下降窓を持つ。製造年も1929年と新しく、その点では自社発注車と較べても何ら遜色のないものであったが、いかんせん武蔵中央時代の道路幅の制約のために車幅が2,110mmしかなく、101形が2,420mmあったことを考えるとその「馬面」加減は推して知るべしであろう。テールライトが幕板向かって左側に1灯だけ付けられていたのも、他車とは趣を異にしていた。

狭幅のために入線後、座席を点対称に撤去していたというが、半鋼製車ゆえ他の移籍車のように大改造や車体載せ替えなどを施行する必要はなく、改造は方向幕埋め込み、テールライト設置(腰板向って左に1灯取付けののち、戦後は他車同様の埋込テール2灯設置)などむしろ新造車に近いシンプルなものであった。

元々が軌道線車輌であるから当然低床で、腰の低いプロポーションを持っていたが、戦後の台車履き替えによって高床車用の台車を宛てがわれてしまい、妙に腰高になって馬面電車の感を強くしていた。この台車は111のものだといわれている。なお廃車間際の1956年には、112+202の連結化改造に伴い本車と202の台車を交換している。

当初の茶+クリームからクリーム+青に塗色変更の後、ホーム嵩上げ時のステップ切除対象から外れ1956年に現役を退いたが、江ノ電には狭すぎた車体幅によって今度は命拾いする結果となり、762mm軌間の栃尾電鉄(→越後交通栃尾線)に移籍。ホハ23と名を変え、軽便用の台車に振り替えて使用された。のち1961年に東横車輛碑文谷工場で制御車化改造、クハ101となり、再びホハ23への改番を経、最終的にはクハ111となって1975年の同線廃止まで活躍した。こちらでも何度か台車振り替えを行なっている。

ものによっては栃尾への移籍時に台車も譲渡されたという記述も見られ、こちらは垂直カルダン駆動に改造のうえ、1957年同社工場にて製造されたモハ211に転用されたといわれるが、車体のみの譲渡であったともいい、このあたりは資料によって記述が一定しない。

越後交通での廃車後は新潟県内のドライブスルーに保存され、1980年代末ごろまでは姿を留めていたらしいが、現存しない。

編成

藤沢 鎌倉
115

各種データ

製造所 日本車両
制御方式 抵抗制御
駆動方式 吊掛式
車体 半鋼製
車体長 ---
自重 ---
定員 ---
製造年 昭和4年
最大在籍数 1輌

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