1912〜1921年にかけて8輌が導入された。2軸単車では最大のグループであり、横浜電気→東京電灯江之島線時代の新製車としても珍しいものである。

従来車との大きな差異は車体の裾絞りを廃したことで、腰板は縦の羽目板張りとなった。在来車も順次、同様に改造された。集電装置は当初からポールであった。台車も従来車のドイツ系でなく、一般的なブリル21E。前照灯も当初から埋め込まれていたようである。

前述のとおり裾絞りを廃し、当初よりベスチビュール付だったが、屋根は再び段落ち形ダブルルーフに戻った。ダブルルーフも1〜10が妻に曲線を配していたのに対し、直線的に処理された至ってシンプルなものである。代わりにダブルルーフ妻にも窓が付けられ、デッキ昇降口上隅には装飾が見られるほか側窓の窓ガラス上辺は弧を描いていた。デッキ間窓数は8枚。

11〜14同様に前面幕板には二つの小窓を持つが、ひとつとなっている記録もあり、車輌によって後天的な改造があったと思われる。

塗装は茶一色の記録が多いが、明色(金色か?)の縁取り模様(10に見られる模様とは別のもの)が見られることもある。こういった装飾は大正期までで、昭和期には既に廃止されていたとみられる。

1930年代には側面に外吊り式の1枚引き戸(東武の軌道線で見られたのと同様の構造)を設置した車輌があり、全車に及んだかは不明であるがこのグループ独特の工事であったようである。これによって干渉する部分の側窓保護棒が撤去された。

15・16は1934年、デッキを片側ずつ閉塞・客室化し、幌を渡して連結車(M+M)化された。単車の永久連結車化改造は江ノ電では類例がなく、あくまで試作的改造だったと思われるが、走行性に難があり、休車がちであったらしい。

比較的新しかったこともあってであろう、納涼電車に改造されることもなく、1940年ごろまで活躍の後に廃車。連結車化された15・16を除く6輌が他社へ譲渡された。

17・18・19・20は東武鉄道に譲渡、伊香保軌道線で戦後まで活躍し、同線が全廃された1950年代までに廃車。21・22は納涼車11とともに仙台市へと移り、機器移設・流用により63・64の2輌として再起(台車形式の記録から、64は旧21そのまま、63は旧22の車体と11の台車によって組み立てられたと思われる。改造は三真工業所/1942年)。64は1949年に廃車、63は同年さらに秋保電気鉄道に移籍しマハ12→モハ413となって1954年まで活躍した。

編成

藤沢 鎌倉
15 16
1934連結化
17
18
19
20
21
22

各種データ

製造所 ---
制御方式 抵抗制御
駆動方式 吊掛式
車体 木製
車体長 7.84m
自重 7.5t?
定員 40人?
製造初年 明治45年
最大在籍数 8輌


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