1949年、113・114と台車を共有していた納涼電車の車体に、115の台車(ボールドウィン系。115には廃車済の111の台車が宛てがわれた)と静岡鉄道から譲受した台車(日車A形)をそれぞれ組み合わせて誕生。1950年、一般車としてデビューした。台車はボールドウィン流用が201、日車A流用が202である。

原車は納涼電車であり窓ガラスが嵌まっておらず、通年使用するために窓枠と窓ガラスを新設したが、基本的に旧車体の骨組みは不変で、急場しのぎの感が強い車輌であった。

前面窓はもともと窓枠のあった中央窓はそのまま、両端は2段窓とされた。中央窓上にあった行先表示窓はそのままとされたが、既に行先表示は腰板に方向板を掛ける方式に移行していたため、単純に窓として残されたもののようである。側面窓は旧車体の窓柱間ごとに2連の2段窓が付けられ、運転台脇のほんのわずかなスペースにも極狭の窓が設けられた。

元が窓や扉のない納涼電車なので、幕板がなく窓から直に屋根に繋がるようなアンバランスなプロポーションとなった。また簡単な柵だけだった乗降口には戸袋を設ける場所がないため、江ノ電ではたいへん珍しい2枚折戸(縦長3段窓)が設置されていた。

ヘッドライトは他車に倣って屋根上に移されたが、当時江ノ電のテールライトは車外へのぶら下がりを防ぐためバンパー下にドクロテールを2個吊り下げる配置となっており、前面腰板に付くのは車番、方向板、続行運転用の白色円板ぐらいであった。当車にあっては元々幕板のないところへ持ってきて、いっそう馬面が強調される結果となった。

なお、当車の一般車化改造時に青+クリームの塗り分け(いわゆる「青電」塗装)が初めて登場するが、当初は他車を含め、塗り分け線は茶+クリーム時代と同じであった(ドア一色塗り、幕板塗り分けなし)。その後他車はドアと幕板を塗り分けるようになるが、200形に適用されたかは不明である。末期には現行標準色にもなったようで、この時には200形もドア下部を塗り分けている。ただし幕板部の塗り分けはなされなかった。

201はホーム嵩上げによるステップ切除、ドア拡幅(新ドアは2段窓。同時に車端の狭窓を撤去)、前面中央窓拡大(旧行先表示窓が消滅)といった改造を経(現行標準色化もこのころか?)、1956年に501Fに台車を譲り、改造名義で廃車となった。なお車体は上田丸子電鉄に譲渡され、サハ28として1972年まで働いた。

202は1954年に都電170形(旧王子電軌200形/1927年川崎車輛製)の車体に載せ替えられた。新車体は2段窓化、2灯テール・流線型前灯化といった改造を施され、前年同じく都電の車体に載せ替えられていた112と類似した姿となったが、種車のメーカーの違いのために屋根高さ(幕板の面積)が異なり、ベンチレータもT形4個×2列であった。こちらは1956年、112と組んで連結車化され、連結車200形の鎌倉方・202となった。

編成

藤沢 鎌倉
201
202

各種データ

製造所 旧車体は日本鉄道自動車
202の新車体は川崎車輛
制御方式 抵抗制御
駆動方式 吊掛式
車体 半鋼製
車体長 11.408m(旧車体)
自重 ---
定員 ---
製造初年 昭和11年(昭和24年改造)
202の新車体は昭和2年
最大在籍数 2輌

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