夏季の海水浴客輸送が大きな頼みどころである江ノ電において、旅客誘致の一策として戦前期のヒット作となったのが納涼電車である。側窓枠を全て取り払った、現代で言うトロッコ列車然とした風貌の2軸単車は1931年の作で、合計5輌が登場した。

種車となったのは2・3・8・11・12で、11・12は当時付随車化されていたため当初はそのままトレーラーの納涼車とされたが、1934年に9・10の電装品を流用して電動車化され、納涼車はすべて電動車となった。改造後、11・12はそのままの番号とされたが2・3・8は改番され、震災で失われた1を襲名、1・2・3に整理された。

車体は新製した鋼製のもので、前面にはボギー車と似た大きなバンパーが付けられた。なお写真から推すに、全車電動車化後は連結器は撤去されたらしい。側窓はガラスがなく、デッキとの境を含め5本の柱が立つ。デッキと客室とを隔てる仕切もなく、窓柱には横引きのカーテンが付いた。屋根は枠組みだけの薄いシングルルーフで、その上に紅白ストライプのキャンバスが張られた。当初は畳敷きの車輌もあったという。車体塗色は水色であった。

1・2だけは夏季以外にも窓ガラスを取り付けて一般車として運用されていた。3・11・12にはそういったことはなく、秋になると休車とされていたらしい。夏季には海水着のまま乗ることができ、当時極めて珍しい車内販売も行われて、人気を博した。

ボギー納涼車の登場後は単車は整理され4輌が他社へ転出、唯一残った12は再改が行なわれたたのか、側面の網状鋼板、出入口の柵などボギー納涼車に準じた形態となった(客室部分の全幅が拡げられたのか、窓柱が上すぼみに傾斜している)。

1・2・3は1940年に武蔵野鉄道に転出(転出後に東横車輛がドア付・2段ガラス窓仕様に改造)。15・16・17となって1941年から多摩湖線で使用され、現在の西武鉄道となってのちの1948年に11・12・13へ改番のうえ、1950年まで活躍した。また11は21・22と共に仙台市へ譲渡、台車だけが(恐らく22の車体と組み合わされて)63の足廻りとして再用された。これは更に秋保電鉄へと転じ、マハ12を経てモハ413として廃車をみたのは1954年であった。

編成

藤沢 鎌倉
1
2
3
11
12

各種データ

製造所 ---
制御方式 抵抗制御
駆動方式 吊掛式
車体 半鋼製
車体長 ---
自重 ---
定員 ---
製造初年 昭和6年改造
最大在籍数 5輌

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