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■1902年、江ノ電最初の営業区間である藤沢・片瀬間開業に際し導入された。日本で6番目の電気鉄道として、当初1年間の営業はこの4輌で行なわれた。 ■前面には窓ガラスもなく、純然たるオープンデッキの2軸単車である。黎明期の2軸単車らしい段付きの裾絞り車体を持ち、デッキ間の窓は8枚、屋根は端部が段落ち形のダブルルーフ。ヘッドライトは据え付けられておらず、必要に応じて着脱式のものを取り付けていたらしい。 ■行先は前面上部に小さく表示されており、箱状の方向幕のようなものが付けられていたのであろう。翌年には付随車の導入をみるが、連結器の装備が当初あったか、付随車導入時に改造されたのかはよくわからない。付随車導入後はいわゆる朝顔型連結器を使用している。 ■機器はドイツ製の舶来品を用いており、台車はマイネッケ、電動機及び集電装置はシーメンス・ハルスケの製品がそれぞれ使用された。集電装置はビューゲルであり、当時日本ではたいへん珍しく先進的な装備であったが、離線も多かったらしく、思いのほか使用実績は好ましくなかったようである。 ■塗装についてはカラー写真など望むべくもない時代でもあり、茶系統であったことは恐らく間違いなさそうだが、当時から塗り替えは多かったようで正確なところはわかりかねる。ただ開業初期の写真から、茶色基調、窓廻り・腰板下段がクリームもしくは白色といった塗り分けであったのだろうと思われる。ただ塗り分け線には個体差があったようでもある。社紋・車号表記も時期・車輌によって書体・様式にばらつきがある(晩年には社紋表記はなくなっている)。 ■後に(と思われる)外板は茶一色とされた。この変更は後述の車体改造より前であるが、車体改造後も茶一色で継続した。これが単車の晩年の標準色となり、新製ボギー車も一色塗りで登場する。 ■後続の増備車が入るにつれて改造工事が加えられ、1〜3については大正年間、9とともにビューゲルのシングルポールへの交換、前面への窓ガラスの取付(3枚窓。左右は背の低い1段窓の上に小窓が付き、中央は上辺が弧を描いた背の高い1段窓。個体差あり?)、車体裾絞り廃止・直線化が施された(これらの改造は必ずしも同時ではなかったようである)。この頃9・10には前照灯の取付が行なわれており、1〜3にも行われたものと思われるが定かでない。 ■なお、4は1905年ごろ、増備車であり当初トレーラーであった8へと電装品を譲り、このためこの改造の対象からは外れていた(トレーラーは他車も含め改造対象外であったらしい)。 ■1923年の震災で1を失い、残り3輌はボギー車導入の頃まで活躍。2・3は1931年から走った納涼電車へと改造された(七里ヶ浜海岸に置かれたキャンプカーの写真に1〜4と思われる車体が見られることから、旧車体は流用されなかったものと思われる)。トレーラーとなっていた4は1931年4月、開業30周年祝賀式典の折に「焚車祭」の主役として七里ヶ浜沖で火葬された。ただし車籍は1933年まで残っていたという。 ■現在、江ノ島駅待合室には「貴賓室の扉」として単車時代の車内仕切扉が展示されており、藤沢・片瀬間開業時の4輌中の2輌が一般客室と貴賓室の合造車となっていたとされている。とすればこの1〜4ということになる(あるいは「お召電車」として特別整備されていたという7か14のものかとも思われるが…?)
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